あんぱん時代設定おかしい!原作と朝ドラの背景や考証の違い

NHK2025年度前期連続テレビ小説:朝ドラ「あんぱん」の時代設定・時代背景や考証がおかしい所を紹介します。

NHK2025年度前期連続テレビ小説:朝ドラ「あんぱん」の時代設定・時代背景や考証がおかしい所を紹介します。

朝ドラ「あんぱん」の時代設定・時代背景や考証がおかしい理由として、

時代設定がおかしい理由
  • 戦前の昭和2年にお弁当の中身にエビフライ、ハンバーグ、ポテトサラダ、メンチカツがある。
  • 同じく、昭和2年に夕食にはチキンの丸焼きがある
  • 昭和2年に存在しないSL機関車:C1266、客車は自動ドアつきの50系客車が登場
  • 戸籍に存在しない「昭和元年拾壱月」が記載されていた
  • 美村屋の「あんぱん」日持ち問題
  • 昭和12年にサクランボが載ったメロンソーダ
  • 昭和12年に「日本人なら、ぜいたくはできない筈だ」のスローガンはちょっと早すぎ

と言った具合で、朝ドラ「あんぱん」の時代設定・時代背景や考証がおかしい所を紹介します。

最低と言われた前作の朝ドラ「おむすび」には原作はありませんが、やなせたかしさん突っ込まれないよう警鐘という観点でご紹介します。

▼朝ドラ「あんぱん」ドラマガイドをチェックする▼

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目次

朝ドラ「あんぱん」の時代設定がおかしい!その理由とは?

木村 優来(ゆら)さんのイラスト

東京から高知にやってきた大人しい少年の柳井嵩(やない たかし)。

尋常小学校に通いますが、お昼に悪ガキどもにお弁当を取られ中身をチェックします。

昭和2年にエビフライ、ハンバーグ、ポテトサラダがお弁当の中に・・

お弁当を悪ガキに奪われる柳井嵩のイラスト
お弁当を悪ガキに奪われる柳井嵩のイラスト

お弁当の中にエビフライ、ハンバーグ、ポテトサラダが・・・

戦前の昭和2年にはさすがに早すぎるのでは・・・と。

エビフライ、ハンバーグ、ポテトサラダが庶民のお弁当として登場したのは戦後のこと

エビフライ、ハンバーグ、ポテトサラダは戦前に日本に入ってきました。

しかし、一般庶民のお弁当の中に登場するのは戦後の高度経済成長期の1960年代ごろになります。

エビフライ、ハンバーグ、ポテトサラダについて
  • ハンバーグ:もともとハンバーグは欧米発祥の「ハンバーグステーキ」がルーツですが、日本では大正・昭和初期の洋食メニューとして紹介されました。しかし、家庭で手軽に作れる洋食として広く普及したのは、戦後の復興期から高度経済成長期(1950~1970年代)にかけてです。この時期、新聞や雑誌、家庭用のレシピ本などを通して「おふくろの味」として定着し、弁当のおかずや定食のメインディッシュとして親しまれるようになりました。
  • エビフライ:エビフライ(衣をまとわせた揚げエビ)は、洋食文化が浸透する中で誕生し、昭和後期(1960年代~70年代)に家庭や弁当屋さん向けに手軽な洋食メニューとして普及しました。サクサクとした食感と見た目の華やかさから、弁当のおかずとして特に人気を博し、今もなお「懐かしの洋食弁当」として定着しています。
  • ポテトサラダ:じゃがいもを使ったサラダは、戦前から一部の洋食メニューとして存在していたものの、戦後の生活様式の変化とともに手軽で栄養バランスのよいサイドディッシュとして広まりました。特に高度経済成長期(1950~1970年代)に、冷蔵技術や食材の流通の発達とともに、家庭料理の定番メニューとして採用され、弁当でも定番のおかずとして登場するようになりました。

過去には、朝ドラ「らんまん」において昭和31年に自宅で手作りの親子丼が登場しました。

別の日にはメンチカツも登場

別の日の嵩の弁当のイラスト
別の日の嵩の弁当のイラスト

別の日の嵩の弁当にはメンチカツらしきものが・・・

メンチカツは、明治時代後期から大正時代にかけて日本に紹介された洋食の一つで、昭和初期には都会の家庭で人気があったとされています。

なお、玉子焼きは一般家庭では贅沢品とされていましたが、柳井清のような裕福な家庭では卵を使った料理が日常的に取り入れられていたことが考えられます。

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夕食にはチキンの丸焼きも

チキンの丸焼きのイラスト
チキンの丸焼きのイラスト

夕食のテーブルにはチキンの丸焼きも。。

昭和2年(1927年)当時、チキンの丸焼きは日本の家庭料理としてはまだ一般的ではなかったようです。

洋食文化が徐々に広まりつつあった時期ではあります。

しかし、丸鶏を調理するためのオーブンが家庭に普及していなかった時代です。

医者の家のような裕福な家庭でも夕食にチキンの丸焼きが登場することは稀だったと考えられます。

ケチャップまで登場・・

嵩のお弁当を食べる朝田のぶのシーンのイラスト
嵩のお弁当を食べる朝田のぶのシーンのイラスト

第2週「フシアワセさん今日は」7話で、父:結太郎が亡くなり、祖父:釜次がケガ・・と食料が尽きてきた朝田家。

朝田のぶは昼飯抜きを決行します・・・が、結局嵩にお弁当をもらい食べました。

ハンバーグはすでに出ていますが、なんとケチャップが・・・

御免与町という高知の田舎は自給自足の生活が中心で、調味料も味噌や醤油などの和風のものが主流と考えられます。

なので、ケチャップの入手は難しいのではと筆者は考えます。

でもこの光景・・・アニメ「アンパンマン」において、アンパンマンが自分の顔をむしり取って、お腹を空かしている人に分け与えるシーンに似ているなと。

こんな感じで、時代設定・時代背景において、突っ込みどころがありましたら都度ご紹介いたします。

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昭和2年に存在しないSL機関車:C1266が登場

機関車と走る幼少期の朝田のぶのイラスト
C1266と競争する朝田のぶのイラスト

昭和2年に存在しなかった、SL機関車:C1266が登場・・・

客車は自動ドアつきの50系客車・・

ただ、これだけは現存する走行可能な戦前の蒸気機関車がないと考えられるので致し方ないと・・

もしくは、静岡県の大井川鉄道なら実現できた?といっても田んぼじゃなくて茶畑だしね・・ミスマッチ。

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デイリースポーツが存在しない昭和元年拾壱月を発表!NHKも仕事はやい・・・

嵩が受験にあたり、取り寄せた戸籍謄本について、デイリースポーツからの引用です。

23日の放送では、昭和11年(1936年)の年が明け、嵩が受験票のために取り寄せた戸籍を見ていた。

そこには母・登美子の個所と、弟・千尋の個所に×印が付けられ、嵩は自分が独りぼっちなんだと改めて気づく。

 この戸籍、登美子の欄には、「昭和元年拾壱月拾参日夫清死亡」と書かれているが、大正天皇が崩御されたのは大正15年(1926年)の12月であるため、昭和元年に11月は存在しない。

デイリースポーツ

取り寄せた戸籍に記載された「昭和元年11月」について、ネットで存在しない情報だと指摘。。

あんな小さい文字を読み取ってよく見つけたな・・・と

そして、NHKも「大正拾五年拾壱月」に修正して配信と・・・仕事が早い・・

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美村屋の「あんぱん」日持ち問題!防腐剤などが無い時代にアンパンのお土産

受験を終え御免与駅に帰ってきた嵩のイラスト
受験を終え御免与駅に帰ってきた嵩のイラスト

東京高等芸術学校に合格し東京から御免与町にもどってきた嵩。

朝田のぶへのお土産として美村屋のアンパンをお土産に持って帰ります。

で・・当時は防腐剤が無い時代・・・常温であんぱんが保存できるのかと・・・保存できても2日程度が限度かと。

一応3月なので、そう簡単には腐らないとは考えられますが・・

ちなみに、新幹線が無い時代なので、東京から高知までの移動には約24~30時間かかっていたと考えられます。

ギリギリあんぱんが腐らなかった??

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戦争中の昭和12年にサクランボが載ったメロンソーダは存在しない

嵩が頼んだメロンソーダのイラスト
嵩が頼んだメロンソーダのイラスト

日中戦争のきっかけになった盧溝橋(ろこうきょう)事件が起きている昭和12年(1937年)7月時代。

東京高等芸術学校の座間先生と学友たちが、銀座のバーへ。

そこでサクランボがのったメロンソーダを頼んだ嵩・・戦前にメロンソーダ??

1902年(明治35年)に、資生堂薬局の一角に日本初のソーダファウンテンが設けられ、ソーダ水とアイスクリームが提供された史実があります。

さらに、1911年(明治44年)には銀座に「カフェーパウリスタ」が開業しています。

資生堂パーラーは、日本で初めてソーダ水とアイスクリームを販売、初期のフレーバーには、レモン、オレンジ、イチゴ、メロンなどが含まれていました。

だけど・・サクランボがのったメロンソーダは・・・

明治屋の「マイシロップ」にメロン味が登場したのは昭和40年代(1965-74年)の頃です。

筆者が生まれた時代にメロンソーダは、アイスクリームとサクランボを乗せたスタイルが定番となりました。

約50年前で、戦後のことです。「サクランボがのったメロンソーダは戦前にはありません」

このバーで健太郎がギターを弾きながら歌ったヘンテコな曲について以下のリンクからご覧いただけます。

▼迷曲「ワッサワッサ」についてチェックする▼

▶▶▶あんぱん東京高等芸術学校ロケ地は東京農工大学!モデルは?

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昭和12年に「日本人なら、ぜいたくはできない筈だ」のスローガンは早すぎ

戦地への献金を呼びかける朝田のぶのイラスト
戦地への献金を呼びかける朝田のぶのイラスト

昭和12年(1937年)、高智女子師範学校で戦地への献金を呼びかける朝田のぶ。

そこには「日本人なら、ぜいたくはできない筈だ」のスローガンが掲げられた看板が・・・

「ぜいたくは敵だ」といったスローガンは昭和15年(1940年)に、国民精神総動員運動の中で制定されました。

1940年(昭和15年)7月7日の「七・七禁令」施行の際には、国民精神総動員運動の末端組織や警察が街頭に出、「奢侈品」を身に着けた人々に注意・警告を発した。

奢侈を禁じる同趣旨の標語は多く作られているが(「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」など)、この「ぜいたくは敵だ」というスローガンはもっともよく知られており、戦後に1940年(昭和15年)頃の経済統制・国民生活統制を振り返る際、時代を象徴するフレーズとして各種の文章に引用される。

weblio

ということで、スローガンの登場がちょっと早すぎです。

ちなみに、献金を呼びかけるシーンは撮影施設「ワープステーション江戸」で行われました。

▼ワープステーション江戸をみてみる▼

▶▶▶あんぱんで路面電車のロケ地!ワープステーション江戸と公開終了理由

ちなみに、昭和12年に銀座で「ハンドバック」は売っていた

ハンドバックをプレゼントされた朝田のぶのイラスト
ハンドバックをプレゼントされた朝田のぶのイラスト

第33話で嵩から絵を描く勇気をくれたお礼として、銀座で見かけた赤いハンドバックをプレゼントしました。

「ぜいたくは出来ない筈だ」の世の中なのに「ハンドバック??」と筆者がギモンに思っていました。

だけど、「ぜいたくは出来ない筈だ」の登場は昭和15年(1940年)です。

なので、昭和12年(1937年)の時点では、百貨店などではハンドバックは売っていました。

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朝ドラ「あんぱん」ストーリーの概要

昭和初期、高知の街中を驚異的なスピードで駆け抜ける少女がいました。

その名は「ハチキンおのぶ」こと朝田のぶ。

一方、幼少期に病気で父を亡くした柳井嵩は伯父の家に引き取られ、転校先の学校でのぶと出会います。

戦争の足音が近づく頃、女子師範学校に通っていたのぶは、

周囲と同様に軍国主義に染まっていきました。

やがて戦争が始まり、嵩は出征。

弟の千尋を戦争で失った嵩、そして最愛の人を失ったのぶ。

女子師範学校を卒業したのぶは、戦争で価値観が一変し、

「何が正しいかは自分で見極めなければならない」

と考え、高知の新聞社に女性で初めての記者として就職します。

戦後、クズ拾いの仕事を辞めた嵩ものぶと同じ新聞社に入社し、二人は同じ雑誌の担当に。

嵩は東京で漫画家を目指したい気持ちを抱えつつも、生活の不安に悩んでいました。

そんな嵩にのぶは

「あなたも後から来て。先に東京に行って待っているわ」と告げ、

新聞社を辞めて上京します。

のぶを追いかけ上京した嵩と、六畳一間のオンボロアパートでの生活が始まります。

風呂はなくトイレは共同。

天井には穴が空き、雨の日には傘を差して入らなければならないが、晴れた夜には星が見える。

そんな暮らしを楽しみ、「どんな環境でも楽しめるこの人と一緒にいたい」と二人は結婚しました。

『手のひらを太陽に』や『アンパンマン』が世間に知られるのは、まだまだ先のことです。

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朝ドラ「あんぱん」時代設定おかしい!原作と朝ドラの背景や考証の違いまとめ

2025年度前期連続テレビ小説:朝ドラ『あんぱん』でいくつかの時代設定や文化描写に関して問題点をご紹介しました。

朝ドラ「あんぱん」のあらすじを当サイトではご紹介しています。

以下のリンクからご覧いただけます。

▼朝ドラ「あんぱん」のあらすじをチェック▼

▶▶▶あんぱんネタバレあらすじ吹き出しを最終回まで最新週プラス

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