2024年前期連続テレビ小説:朝ドラ「虎に翼」、主人公は猪爪寅子です。
朝ドラ「虎に翼」の猪爪寅子のモデルは日本初の弁護士、裁判官の三淵嘉子さんです。
1955年(昭和30年)4月25日、「東京地裁の原爆裁判」、または下田隆一氏の名前から「下田事件」とも呼ばれるこの訴訟を起こします。
三淵嘉子さんは唯一、第1回の弁論から結審までを担当します。
1963年12月7日、三淵嘉子さんは、裁判長・古関敏正、判事・高桑昭とともに、判決は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言しました。
今回は、朝ドラ「虎に翼」のモデルになった日本初の弁護士、裁判官の三淵嘉子さんが担当した、
東京地裁の「原爆裁判」で棄却するものの「原爆投下は国際法違反」と判決された裁判について、
さらに詳しく紹介します。
東京地裁の原爆裁判で三淵嘉子による判決「原爆投下は国際法違反」
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1955年(昭和30年)4月25日、広島・長崎の被爆者たちが、国家に対して損害賠償を求める原爆裁判を提訴しました。
「原爆裁判」、または下田隆一氏の名前から「下田事件」とも呼ばれる訴訟でした。
朝ドラ「虎に翼」寅子のモデル三淵嘉子は東京地裁の担当裁判官となり、約8年にわたる審理に携わりました。
当時、原爆投下は軍事上必要だったという意見が主流でした。
しかし、嘉子は被爆者たちの証言や証拠を丁寧に調べ上げ、国際法の観点から原爆投下を違法と断定しました。
1963年12月7日の判決では、東京地裁は原告の請求は棄却だが、原爆投下を違法な戦闘行為と認定する判決を下しました。
これは、日本の裁判所が初めて原爆投下を違法と判断した画期的な判決であり、その後の原爆被害に対する議論に大きな影響を与えました。
判決文には、三淵嘉子の強い信念と正義感が込められています。彼女は、原爆投下によって被爆者たちが受けた苦しみを深く理解し、法の力で救済しようと努力しました。
東京地裁の原爆裁判・下田裁判の詳細
「東京地裁の原爆裁判」、または「下田事件」とも呼ばれるこの訴訟は、1955年4月25日に東京地方裁判所に原告3名により提訴されました。
この裁判は、広島と長崎の被爆者たち5人が、サンフランシスコ平和条約で米国への賠償請求権を放棄した日本政府を相手に起こした訴えでした。
原告らは、原爆投下が国際法違反であるにもかかわらず、対日講和条約第19条(a)により日本国が国民の請求権を放棄したため、対米賠償請求が不可能となったから、国が賠償すべきであると主張しました。
1963年12月7日に判決が言い渡され、原爆投下が国際法に違反すると明確に認められました。
具体的には、
「原子爆弾による爆撃は無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当」
との判断が示されました。
しかし、判決は、日本国民のこの種の対米賠償請求権は、講和条約第19条(a)の規定と関係なく、そもそも存在しないものとして原告の請求を退けました。
判決による影響は?核兵器に関する議論に影響
この判決により、原爆投下の違法性を指摘し核兵器禁止条約の礎石になったともいえる裁判です。
判決後の核兵器に関する議論に大きな影響を与えました。
また、国の結果責任の可能性や政治の貧困を嘆いたことから、原爆特別措置法に道を開いたともいわれています。
原爆特別措置法とは?
「原爆特別措置法」は正式には「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」と呼ばれ、
昭和43年に制定されました。
この法律は、広島と長崎に投下された原子爆弾の被爆者であって、
原子爆弾の傷害作用の影響を受け、今なお特別の状態にあるものに対し、特別手当の支給等の措置を講じることにより、その福祉を図ることを目的としています。
この法律により、被爆者に対する医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする施策が実施されています。
具体的には、被爆者に対して必要な医療の給付を行い、その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある場合に限り、その医療の給付を行います。
また、この法律により、被爆者に対する健康診断が行われ、その結果に基づいて必要な指導が行われます。
さらに、被爆者に対する医療の給付は、厚生労働大臣が指定する医療機関に委託して行われます。
このように、「原爆特別措置法」は、原爆の被爆者に対する援護を具体化した重要な法律であり、その福祉の向上を図るための基盤となっています。
原爆特別措置法の問題点
「原爆特別措置法」は被爆者の福祉を図るために制定された重要な法律ですが、
その適用や実施にはいくつかの問題点が指摘されています。
- 在外被爆者への支援: さまざまな事情から自国に戻った被爆者や海外に渡った被爆者は、日本に滞在している期間を除いては長い間被爆者援護法の対象となっていませんでした。
しかし、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、司法に訴える動きも相次ぎました。
現在では、日本国外に居住する被爆者についても、居住国で負担した医療費を被爆者援護法に基づき支給できるようになりました。 - 黒い雨に関する調査研究と地域拡大への取組: 広島市の北西部の放射能を含んだ黒い雨が降った地域、いわゆる「黒い雨降雨地域」については、昭和51年 (1976年)9月、その地域の一部が「健康診断特例地域」として指定されましたが、未だ指定されていない地域が残されています。
- 法律の一本化とその影響: 昭和32年に施行された「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)及び43年に施行された「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」(原爆特別措置法)の、いわゆる原爆2法に基づき、被爆者の健康診断、医療の給付、各種手当の支給等の援護対策が行われてきました。
しかし、被爆者の高齢化の進行など被爆者を取り巻く環境の変化に伴い、施策を更に充実発展させた総合的な対策を講ずることが強く求められるようになり、被爆後50年を契機に、平成6年、第131回国会において、原爆2法を一本化した被爆者援護法が成立しました。
この一本化により、給付内容についても以前の原爆二法より充実しましたが、その適用や実施については引き続き問題が指摘されています。
参照:原爆被爆者援護の現状と課題、広島市:被爆者に対し、どのような援護施策がとられてきたのですか。
三淵嘉子がモデルの猪爪寅子!朝ドラ「虎に翼」ストーリーの概要
昭和4年(1929年)、日本初の女性専門の法律学校が開設されました。
そこには、当時の社会に適応できないで、不安や抑圧を感じる女性たちが集いました。
「虎に翼」物語の主人公である猪爪寅子もその一人です。
彼女たちは、「魔女部」と揶揄される学び舎で法律を学び、
自らの職業への道を切り開く覚悟を決意しました。
その法律学校から昭和13年(1938年)、日本初の女性弁護士が誕生しました。
女性弁護士の一人にもちろん、寅子もおり、彼女たちは全国的に注目を集めました。
でも、彼女たちが弁護士として社会に進出した時節、日本は戦争への道を歩み始めていました。
彼女たちは法律の知識を得た翼で羽ばたこうとしましたが、
その翼はもぎ取られて、失速してしまいました。
昭和20年(1945年)、焼け野原の中で立ち尽くす寅子は全てを失いました。
でも、過去に学んだ法律だけが、生き抜くための糧でありました。
寅子は裁判官になることを決意し、
戦争で亡くした親や困難に立ち向かう女性や子どもたちのために、
家庭裁判所の設立に尽力しました。
そして、寅子はついに裁判官となりました。
寅子と仲間たちは、政治や経済では解決できない、
困難に立ち向かう人々の世界を理解し、
その苦境から救うために情熱を持って取り組みました。
朝ドラ「虎に翼」猪爪寅子のモデル三淵嘉子と原爆裁判で原爆投下は国際法違反!
朝ドラ「虎に翼」のモデルになった日本初の弁護士、裁判官の三淵嘉子さんが担当した、
東京地裁の「原爆裁判」で棄却するものの「原爆投下は国際法違反」と判決された裁判について紹介しました。
原爆裁判における彼女の役割は、戦後の日本における人権と平和を考える上で極めて重要ですね。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。