2024年前期連続テレビ小説:朝ドラ「虎に翼」、判事の花岡悟君が栄養失調による飢餓で亡くなります。
朝ドラ「虎に翼」の主人公:猪爪(佐田)寅子がかつてキュンとした花岡悟君が
食糧管理法違反事件を担当する立場上、闇市の物には手を付けられませんでした。
判事がヤミを拒み・・そのため、栄養失調による飢餓で亡くなってしまいます。
寅子もどれが正しいのか迷いながらも、花岡さんが守ろうとしたもの守るからと決意します。
この記事では、判事の花岡悟君が判事という立場上「食糧管理法違反」をしてはならないと、
最終的には、栄養失調による飢餓で亡くなる原因にもなった「食糧管理法」について詳しく紹介します。
また、筆者も体験した「食糧管理法」に関係したタイ米に始まる平成の米騒動や、
元ネタの栄養失調・飢餓で亡くなった花岡くんの実在モデル山口良忠さんや、
花岡悟役の岩田剛典さんのプロフィールと経歴について詳しく紹介します。
朝ドラ「虎に翼」花岡悟君を苦しめる原因ともなった食糧管理法違反とは?
東京地裁で、花岡は判事として主に食糧管理法違反の事件を担当します。
久しぶりの再会の寅子も自分の弁当が闇市の白米だとヤバいと思って隠し・・・
でも、花岡は、猪爪を告発したりしない、生きるために必要だからというが、
法を犯しているのは事実という寅子に「変わらないな」と花岡は言うが、
変わって「謙虚」と言われること伝えると、
「前も今も全部君だよ、どうなりたいかは自分で選ぶしかない」と梅子のパクリだという花岡。
ちなみに、花岡さんの弁当にはくず米と麦が入ったおにぎりだけであった。
去り際に、GHQホーナーからもらったチョコレートの半分を花岡の子供にと渡す寅子。
花岡君は、食糧管理法を遵守し、闇市のモノには手をつけず、あの世に・・
日比谷公園のベンチで
「花岡さんが守ろうとしたものをわたしがまもっていくから」と涙ながら決意する寅子
花岡さんが亡くなった要因の「食糧管理法」について、紹介します。
日本国内を悲しみに・・花岡の訃報
花岡の訃報は新聞で伝えられました。
「判事がヤミを拒み 栄養失調でタヒ亡 遺した日誌で明るみに」
安い給料では食えぬ・・
花岡が判事として取り扱っていた「食糧管理法」とは?
「食糧管理法」とは、1942年に制定され、1995年に廃止された日本の法律です。
日本の戦後の混乱期に制定された法律で、食糧の供給と分配を国が管理することを定めていました。
- 背景 第二次世界大戦後の日本は、都市部の大規模な空襲により農地が失われ、食糧生産が大幅に減少しました。また、戦争による人的資源の喪失とインフラの破壊により、食糧の生産と流通が困難になりました。これらの要因が重なり、飢餓が広がり、多くの人々が命を落とす事態となりました。
- 食糧管理法の制定 このような状況を収束させるため、1942年に「食糧管理法」が制定されました。この法律は、食糧の生産、流通、消費を国家が統制し、公平な分配を行うことを目指していました。具体的には、農家は収穫した穀物を政府に販売し、政府はそれを都市部の消費者に配布するというシステムが確立されました。
- 影響と評価 食糧管理法の下で、食糧の公平な分配が図られ、一部の人々の飢餓死を防ぐことに成功しました。しかし、一方で、政府の価格設定が市場価格を大幅に下回ることが多かったため、農家の生産意欲を削ぎ、食糧生産量の増加を妨げる結果となりました。また、配給制度の運用には不公平や不正が存在し、全ての人々に公平に食糧が行き渡ることはありませんでした。
「食糧管理法」は戦後日本の食糧問題に対する一つの解決策でしたが、その運用には多くの課題がありました。
花岡くんも、判事という立場である以上、「食糧管理法」を遵守しなければならず・・結果、飢えでなくなってしまいます。
その後、高度経済成長を経て食糧事情は大きく改善され、現在ではこのような法律は存在していません。
しかし、その歴史から、食料自給率といった食糧供給の重要性と、それを公平に管理する難しさを教えます。
「食糧管理法」が目指したこととその終焉
「食糧管理法」は、食糧の生産、流通、消費を国家が統制し、公平な分配を行うことを目指していました。
- 生産: 農家は収穫した穀物を政府に販売することが義務付けられました。供出価格及び供出数量は政府によって決定されました。
- 流通: 政府は収穫された穀物を都市部の消費者に配布するシステムを確立しました。これ以外の流通は一切認められず、不正な流通は刑罰の対象となりました。
- 消費: 消費者は政府から配給された穀物を消費しました。食糧の配給は「米穀配給通帳」に基づいて行われました。
この法律は、食糧(主に米)の需給と価格の安定を目的としていました。
しかし、この法律の運用には多くの課題があり、食糧事情が大きく改善された後の1995年に廃止され、
主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)に引き継がれました。
コメ不足でタイマイ食べたのいつだっけ・・1993年米騒動
そういえば、日本における冷夏で、1993年米騒動がありました。
スーパーの開店前に並んでもお米が無い・・・そんなときもありました。(マジで)
タイの方には申し訳なかったですが、筆者にはタイマイはちょっと苦手でした。
1995年に食糧管理法が廃止されたことで、お米が輸入されるようになりました。
花岡悟君が飢餓で亡くなる・・第二次世界大戦後の日本は?
花岡くんが亡くなるのはショックですが、そのころの日本の食料事情はどうだったのでしょうか。
第二次世界大戦後の日本は、食糧不足、住宅不足、物資不足などが深刻化します。
特に食糧面では、国民総飢餓状態となりました。
日本の食糧事情
- 飢餓の原因 戦争による農地の破壊、人的資源の喪失、インフラの破壊などにより、食糧の生産と流通が困難になりました。また、米の穫れない山間冷涼畑作地帯の農家はヒエやアワなどの雑穀が主食であり、冷害の年などにはふだんは食べない山野草やドングリなどを工夫して食料とし、飢えをしのぐしかありませんでした。
- 飢餓の影響 飢餓は都市部だけでなく、地方の農村部にも深刻な影響を及ぼしました。北海道の畑作地帯の農家の子どもは冬になると、カボチャが冬の主食のため、顔がみんな黄色くなり、戦後10年間、それが続きました。
- 飢餓の終息 飢餓の状況は、食糧管理法の制定や高度経済成長により徐々に改善されました。しかし、その過程で多くの人々が命を落とす事態となりました。
このように、戦後日本の飢餓は深刻な社会問題でした。
日本のお米改めてありがたくいただきたいですね。
元ネタになった栄養失調・飢餓で亡くなった裁判官の実在モデルがいた!
実際に、栄養失調で亡くなった裁判官の実在モデルがいました。
山口良忠さんです。
主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していました。
裁判官の山口良忠さんとは?
山口良忠(やまぐち よしただ、1913年11月16日 – 1947年10月11日)さんは、佐賀県杵島郡白石町出身です。
太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、
闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、
栄養失調による飢餓で亡くなったことで知られています。
山口良忠さんは佐賀高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業後、高等文官試験司法科試験に合格し、判事になりました。
1942年に東京民事地方裁判所に転任し、1946年に東京区裁判所の経済事犯専任判事になりました。
この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していました。
山口良忠さんは配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。
法を破った人間を罰する立場の自分が、ヤミ米などを食べていてはいけないとの信念をもっていたからです。
義理の父親・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、
食事に招待するなどしたものの、山口はそれらも拒否をしました。
自ら畑を耕してイモを栽培したりと栄養状況を改善する努力もしていたが、
次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきます。
しかし、自分が職を離れたら
「担当の被告人100人をいつまでも未決のままにしてはならない」
と療養も拒否をしました。
そして、1947年8月27日に地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を書いたあと、
やっと故郷の佐賀県の白石町で療養します。
東京の職場を離れた山口さんは、
まるで肩の重荷が取れたように配給以外の食べ物もよく食べるようになりましたが、
すでに手遅れでした。
「食管法は悪法だ」。それで自身は判事だから
「自分はどれほど苦しくともヤミの買い出しなんかは絶対にやらない」とノートに記しました。
1947年(昭和22年)10月11日、
栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため33歳で亡くなりました。
1947年(昭和22年)11月5日朝日新聞で報道
「判事がヤミを拒み 栄養失調でタヒ亡 遺した日誌で明るみに」
安い給料では食えぬ・・という新聞報道で日本国内が悲しみに包まれました。
山口良忠さんが栄養失調・飢餓で亡くなった以降の出来事
山口良忠さんが亡くなってから、20日ほど経った11月4日に、朝日新聞で報道され、話題を集めました。
なおその自らに厳しい態度から、
食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと考えられましたが、
同情的な意見もあり、情状酌量した判決を下すことが多かったといわれています。
法律を守っては生きていけない大変厳しい時代・・・
そもそも、よりよく生きるためにあるべきものが法律ですよね。。
この出来事から、闇米を食べなければ生きて行くことそれ自体が不可能であり、
食糧管理法それ自体が守ることが不可能な法律であったという意見もあり、
食糧管理法違反事件ではしばしば期待可能性・緊急避難の法理の適用が主張されたが、
裁判所によってことごとく退けられていました。
食糧管理法を遵守して飢餓で命を落としたした者として、山口の他には
- 東京高校ドイツ語教授:亀尾英四郎
- 青森地裁判事:保科徳太郎
が挙げられます。
ドラマ同様に奥さんの矩子さんも絵を描いていた
ドラマではチョコレートを渡す絵を描いていましたが、
史実として、山口判事の奥さんの矩子さんは
2人の息子描いた「庭で」の作品を描きあげました。
そのほかにも「ざくろ」や「花」を描いた絵など合計5点もあります。
これらの作品は、最高裁判所が絵画を買ったり、
同僚が絵画を買い上げ最高裁判所に寄贈したと言われています。
山口良忠さんと花岡悟君の違い
山口良忠さんは「虎に翼」の登場人物、花岡悟のモデルになったと考えられます。
なお、相違点を以下にまとめてみました。
山口良忠さん | 花岡悟君 | |
学歴 | 京都帝国大学 | 明律大卓(明治大学のモデル) |
性格 | 真面目で正義感が強い | 真面目で正義感が強いが社交的 |
家族 | 妻と2人の子供 | 妻と娘と息子 |
影響 | 新聞で取り上げられる | 主人公:佐田寅子が遺志を継ぐ |
朝ドラ「虎に翼」花岡悟役の岩田剛典さん
画像引用元:楽天
花岡悟役の岩田剛典さんについて紹介します。
岩田剛典さんは、日本のダンサー、俳優、歌手であり、
三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEおよびEXILEのメンバーとして活躍しています。
岩田剛典さんのプロフィールと経歴
- 出身地: 愛知県名古屋市
- 学歴:慶應義塾大学法学部政治学科卒業
- ダンスキャリア:
- 高校3年の時に映画『RIZE』に影響を受け、KRUMPを始める。
- 日本のKRUMPの第一人者であるJUN aka Twiggzと出会い、Boi Twiggzの名でTwiggz Famのメンバーとして活動。
- 2010年に三代目J Soul Brothersのパフォーマーオーディションに参加し、メンバーに選ばれる。
- 俳優としての活動:
- 劇団EXILE 舞台「あたっくNo.1」で俳優デビュー。
- 映画:名も無き世界のエンドロールで主演
佐田寅子!朝ドラ「虎に翼」ストーリーの概要
昭和4年(1929年)、日本初の女性専門の法律学校が開設されました。
そこには、当時の社会に適応できないで、不安や抑圧を感じる女性たちが集いました。
「虎に翼」物語の主人公である猪爪寅子もその一人です。
彼女たちは、「魔女部」と揶揄される学び舎で法律を学び、
自らの職業への道を切り開く覚悟を決意しました。
その法律学校から昭和13年(1938年)、日本初の女性弁護士が誕生しました。
女性弁護士の一人にもちろん、寅子もおり、彼女たちは全国的に注目を集めました。
でも、彼女たちが弁護士として社会に進出した時節、日本は戦争への道を歩み始めていました。
彼女たちは法律の知識を得た翼で羽ばたこうとしましたが、
その翼はもぎ取られて、失速してしまいました。
昭和20年(1945年)、焼け野原の中で立ち尽くす寅子は全てを失いました。
でも、過去に学んだ法律だけが、生き抜くための糧でありました。
寅子は裁判官になることを決意し、
戦争で亡くした親や困難に立ち向かう女性や子どもたちのために、
家庭裁判所の設立に尽力しました。
そして、寅子はついに裁判官となりました。
寅子と仲間たちは、政治や経済では解決できない、
困難に立ち向かう人々の世界を理解し、
その苦境から救うために情熱を持って取り組みました。
虎に翼花岡悟が栄養失調で飢餓で逝去!原因の食糧管理法違反とは?まとめ
2024年前期連続テレビ小説:朝ドラ「虎に翼」
判事の花岡悟君が食糧管理法違反事件を担当する立場上、
闇市の物には手を付けず栄養失調の飢餓で亡くなった原因の食糧管理法と飢餓について紹介しました。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。