NHK2025年度前期連続テレビ小説:朝ドラ「あんぱん」主人公:柳井嵩(やないたかし)モデルになった「やなせたかし」の父母や妻や子供と経歴を紹介します。
『アンパンマン』の生みの親でもあるやなせたかし(本名: 柳瀬嵩)さんは、高知県出身の漫画家・詩人です。
朝ドラ「あんぱん」の主人公:柳井嵩(やないたかし)モデルで、正義と優しさをテーマに多くの人々に愛される作品を遺した人物です。
今回は「やなたたかし」さんの父母や妻や子供といったプロフィールや経歴を詳しくご紹介いたします。
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朝ドラあんぱん柳井嵩(やないたかし)モデル「やなせたかし」のプロフィール

やなせたかし: アンパンマンを生んだ愛と勇気の物語 (322) (別冊太陽)
やなせたかしの生い立ち
やなせたかし(本名:柳瀬嵩〈やなせ たかし〉)は1919年(大正8年)2月6日に東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)で生まれました。
幼少期は家族とともに過ごし、その後の人生で多くの試練を経験しながら、日本を代表する漫画家・絵本作家となりました。
やなせたかしの父母は?
やなせたかしの父親は「柳瀬清(やなせ きよし)」
やなせたかしの父親は柳瀬清です。柳瀬清は高知県香美郡香北町の名家・柳瀬家の出身で、柳瀬治太郎の次男として生まれました。
柳瀬清は、東京朝日新聞の社会部に所属していた新聞記者でした。
柳瀬清は上海の東亜同文書院を卒業後、日本郵船や講談社で編集者としての経験を積み、その後、東京朝日新聞に引き抜かれました。
新聞記者として多忙な生活を送りながらも、家族を大切にしていました。
また、詩や絵、物語を愛する文化的な人物で、やなせたかしさんが幼い頃から読書や絵に親しむきっかけを与えたと言われています。
しかし、やなせたかしさんが5歳の時、父親は赴任先のアモイで亡くなりました。
そのため、やなせたかしさんには父の記憶はほとんどありませんでした。
その後、家族は父方の実家がある高知県に移り、伯父に引き取られて育てられました
やなせたかしの母親は「柳瀬登喜子(やなせ ときこ)」
やなせたかしさんの母親は「柳瀬登喜子(やなせ ときこ)」さんです。
柳瀬登喜子さんは華やかで社交的な性格の持ち主で、派手な服装や生活を好む一方で、しつけには厳しい母親でした。
やなせたかしさんが幼い頃、彼女は琴や三味線、生け花、茶道など多くの習い事をし、その中で得意だった生け花と茶道の教室を開いて家計を支えました。
しかし、夫(やなせたかしさんの父親)が亡くなった後、彼女は再婚し、その際にやなせたかしさんは伯父(柳瀬寛)に引き取られて育てられることになりました。
それでも、母親としての愛情は深く、映画に連れて行ったり、疲れて寝てしまった時にはおんぶして帰るなど、温かい思い出も多く残されていました。
やなせたかしの兄弟は?「柳瀬千尋(やなせ ちひろ)」
やなせたかしさんには2歳年下の弟が一人いました。
弟の名前は「柳瀬千尋(やなせ ちひろ)」さんで、やなせたかしさんと非常に仲が良かったです。
幼少期には一緒に山登りをしたり、剣劇ごっこを楽しんだりと、兄弟で多くの時間を共有していました。
しかし、千尋さんは太平洋戦争中の1944年12月30日に亡くなってしまいました。
やなせたかしさんは長年、弟が人間魚雷「回天」に乗っていたと思い込んでいました。
しかし、実際には、対潜水艦探知室の分隊士として駆逐艦「呉竹」に乗っていたことが後に判明しました。
この弟への深い愛情と喪失感が、やなせたかしさんの作品や詩に影響を与えたとも言われています。
やなせたかしは弟との思い出を詩集『おとうとものがたり』に綴っています。
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やなせたかしの妻は?「小松暢(こまつ のぶ)」

やなせたかしと小松暢の人生 (MSムック)
やなせたかしさんの妻は「小松暢(こまつ のぶ)」さんです。
小松暢さんは高知新聞社で編集者として働いていた際にやなせたかしさんと出会い、1947年に結婚しました。
暢さんは非常に行動力があり、男勝りな性格で、やなせたかしさんの創作活動を支える重要な存在でした。
彼女は「なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせるから」と言って、やなせたかしさんを励まし続けました。
また、家庭では「おぶちゃん」と呼ばれ、夫婦の絆が深かったことが知られています。
暢さんは1993年11月、暢さんは75歳で癌のため亡くなりました。
やなせたかしの代表作『アンパンマン』が成功するまでの道のりでは、彼の作品づくりを支援し、共に歩んできました。
彼女の存在なくしては、やなせたかしの成功は語れないと言えるでしょう。
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やなせたかしの子供は?
やなせたかしには子供はいませんでした。
しかし、やなせたかし夫妻にとって、『アンパンマン』は2人の子供のような存在だったとされています。
やなせたかしの経歴と生涯
幼少期と学生時代
やなせたかしは幼少期に父を亡くし、母とともに高知県に移住しました。
高知市立第三小学校(旧・追手前小学校)に入学、小学2年生の時に後免野田組合尋常小学校(現・南国市立後免野田小学校)に編入します。
高知県の「高知県立高知追手前高等学校」(旧・高知城東中学校)を卒業後、東京高等工芸学校図案科(現在の千葉大学工学部デザイン学科)に進学しました。
この学校でデザインを学び、後のグラフィックデザイナーや漫画家としての基盤を築いたと言われました。
1939年(昭和14年)卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職します。
戦争体験とその影響
1941年(昭和16年)に徴兵され、大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称、西部第73部隊)に配属されました。
学歴を活かして幹部候補生を志願し、乙幹に合格。暗号の担当を任され、下士官としての役割を果たしました。
補充隊で教育を受けた後は、日中戦争(中国戦線)に参加し、部隊内では主に暗号の作成・解読を担当し、宣撫活動にも従事しました。
地元の人々に向けて紙芝居を作り、演じたこともあったと言われています。
戦闘のない地域での勤務が多く、戦闘職ではなかったため、敵に向かって銃を撃つことは一度もありませんでした。
最終的には陸軍軍曹の階級に達しました。
戦争体験はやなせたかしの人生観に大きな影響を与え、「正義とは何か?」という問いを生涯にわたって持ち続けることになります。
高知新聞・三越での勤務経験
やなせたかしさん亡くなる残念ですね。三越の宣伝部時代に包装紙「華ひらく」のmitsukoshi文字を入れたのは有名です。 pic.twitter.com/vPeCooBqxB
— Tkms@0606 (@tkms0606) October 15, 2013
やなせたかしさんは戦後、27歳で高知新聞社に入社しました。
そこで社会部記者を経て、雑誌「月刊高知」の編集や広告取り、漫画の連載、表紙のデザインなど、多岐にわたる業務を担当しました。
高知新聞社でのちに妻となる小松暢と出会いました。
その後、28歳で上京し、百貨店「三越」の宣伝部で働くことになります。
三越では、広告やデザインの仕事に携わり、特に包装紙のデザインやロゴの制作などで才能を発揮しました。
三越の有名な包装紙「華ひらく」の制作に携わり、英文字のレタリングを担当しました。
このデザインは70年以上経った現在も使用されています。
34歳で三越百貨店を退社し、フリーランスになりました。
ここでの経験が、後の創作活動にも影響を与えたとされています。

戦後の苦悩と漫画家への道
仕事を転々としながら苦しい生活を送りましたが、次第に漫画家としての道を歩み始めました。
彼の代表作『アンパンマン』が生まれるまでには、多くの試行錯誤と努力がありました。
『アンパンマン』の誕生

アンパンマン プリちぃビーンズS Plus アンパンマン
国民的アニメで人気的爆発になった『アンパンマン』
やなせたかしが生み出した『アンパンマン』は、当初はあまり注目されませんでした。
しかし、アニメ化されたことで人気が爆発し、日本全国の子供たちに愛されるキャラクターとなりました。
アンパンマンに込められた想い
アンパンマンには「本当の正義とは何か?」というやなせたかしの哲学が込められています。
自分を犠牲にしてでも他者を助けるアンパンマンの姿勢は、戦争体験を経たやなせたかしの思いが反映されています。

やなせたかしの多彩な才能
詩人・作詞家としての活躍
やなせたかしは詩人・作詞家としても才能を発揮しました。特に『アンパンマンのマーチ』は、日本中で広く親しまれています。

絵本作家としての活動
漫画家としてだけでなく、絵本作家としても多くの作品を発表しました。彼の作品は、温かく優しい世界観が特徴です。
晩年と遺したもの

やなせたかしさんの晩年は、病気との闘いが続く中でも創作活動を続けた充実した日々でした。
やなせたかしさんは自らを「病気の総合商社」と冗談交じりに表現しながらも、規則正しい生活を送り、健康を維持する努力を惜しみませんでした。
毎朝の体操や健康的な食事を心がけ、最後まで元気に活動を続けていました。
彼が遺したものとして、何よりも『アンパンマン』が挙げられます。
この作品は、子どもたちだけでなく大人にも愛され、正義や優しさの大切さを伝える象徴的な存在となりました。
また、彼は地方自治体に無償でキャラクターを提供するなど、社会貢献にも積極的でした。
やなせたかしさんは晩年まで創作活動を続け、2013年に94歳で亡くなりました。
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朝ドラ「あんぱん」ストーリーの概要
昭和初期、高知の街中を驚異的なスピードで駆け抜ける少女がいました。
その名は「ハチキンおのぶ」こと朝田のぶ。
一方、幼少期に病気で父を亡くした柳井嵩は伯父の家に引き取られ、転校先の学校でのぶと出会います。
戦争の足音が近づく頃、女子師範学校に通っていたのぶは、
周囲と同様に軍国主義に染まっていきました。
やがて戦争が始まり、嵩は出征。
弟の千尋を戦争で失った嵩、そして最愛の人を失ったのぶ。
女子師範学校を卒業したのぶは、戦争で価値観が一変し、
「何が正しいかは自分で見極めなければならない」
と考え、高知の新聞社に女性で初めての記者として就職します。
戦後、クズ拾いの仕事を辞めた嵩ものぶと同じ新聞社に入社し、二人は同じ雑誌の担当に。
嵩は東京で漫画家を目指したい気持ちを抱えつつも、生活の不安に悩んでいました。
そんな嵩にのぶは
「あなたも後から来て。先に東京に行って待っているわ」と告げ、
新聞社を辞めて上京します。
のぶを追いかけ上京した嵩と、六畳一間のオンボロアパートでの生活が始まります。
風呂はなくトイレは共同。
天井には穴が空き、雨の日には傘を差して入らなければならないが、晴れた夜には星が見える。
そんな暮らしを楽しみ、「どんな環境でも楽しめるこの人と一緒にいたい」と二人は結婚しました。
『手のひらを太陽に』や『アンパンマン』が世間に知られるのは、まだまだ先のことです。
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朝ドラあんぱん柳井嵩(やないたかし)モデルやなせたかし父母や妻や子供と経歴は?まとめ
やなせたかしは、戦争体験などの試練を乗り越え、多くの作品を生み出しました。
『アンパンマン』をはじめとする彼の作品は、これからも日本中の子供たちに愛され続けることでしょう。