NHK連続テレビ小説:朝ドラ「あんぱん」で登場する「独創漫画派」のモデルは『独立漫画派』です。
独立漫画派(どくりつまんがは:略称:独漫派)は、1940年代後半から1950年代にかけて活動した、日本の漫画史における前衛的な漫画家グループです。
戦後の混乱期、日本社会は新しい価値観を模索しており、漫画界もまた商業主義とは異なる表現を追求する動きが芽生えていました。
独立漫画派は、その中心的存在として「漫画を芸術として扱う」という理念を掲げ、活動を展開しました。
当時の日本文学界では、三島由紀夫や大江健三郎といった作家が従来の価値観を覆す作品を発表していました。
独立漫画派もまた、同様の精神で漫画表現の新しい可能性を切り開こうとしていたのです。
今回は、NHK連続テレビ小説:朝ドラ「あんぱん」で登場する「独創漫画派」のモデル『独立漫画派』について詳しくご紹介します。
朝ドラあんぱん「独創漫画派」モデル『独立漫画派』の結成と背景
独立漫画派の前身は「前衛漫画会」と呼ばれるグループです。
加藤芳郎や小島功らが所属し、漫画を単なる娯楽から芸術の領域へと押し上げる試みを行っていました。
その後、1947年に「東京漫画人集団」が解散し、関根義人や中島弘二らを中心に独立漫画派が正式に発足します。
当初のメンバーは、やなせたかし、長新太、久里洋二、針すなおなど、多彩な才能を持つ作家たちでした。
彼らは、既存の商業誌だけに頼らず、独自の発表の場を確保するために同人誌『がんま』を刊行しました。
この誌面では、ナンセンス、風刺、抽象的表現など、当時の少年漫画や貸本漫画では見られない実験的な作品が数多く発表されました。
『独立漫画派』の「独立」が意味するものとは?
『独立漫画派』に冠された「独立」という言葉は、単にフリーランスの漫画家が集まったことを超えた、明確な芸術的・思想的スタンスを意味しています。
彼らは、戦前の権威主義的な芸術観や、戦後に台頭し始めたストーリー漫画の商業主義的な潮流から距離を置き、漫画というメディアの持つ本質的な表現力を追求しようとしていました。
彼らの姿勢は、商業的な成功を最優先するのではなく、芸術としての漫画の可能性を追求するものであり、これは文学界における既存の権威への挑戦とも軌を一にするものだったと言えます。
独立漫画派の活動が、物語性よりも個々の表現者の内面や実験性を重視していたことは、後にメンバーが多岐にわたる分野で活躍する下地を形成しました。
彼らのキャリアは、漫画という特定のジャンルに留まることなく、イラストレーション、絵本、アニメーションへと表現の場を広げていきました。
この多様な展開は、初期の「独立」の精神が個々の才能に深く根ざしていたことを示しています。
独立漫画派の活動は、商業漫画の隆盛とは異なる軸で、日本の視覚文化全体の多様な発展に貢献する重要な「文化の土壌」を築き上げました。
活動の象徴『がんま』とその内容
『がんま』は、独立漫画派の理念を体現する重要な媒体でした。
特に1957年に発行された第2号では、岡本太郎や辻まこととの対談が収録され、漫画を純粋芸術と同等に位置づける姿勢が明確に打ち出されました。
これは、漫画を軽視する風潮に対する強いメッセージでもありました。
誌面には短編漫画のほか、風刺イラスト、詩、評論なども掲載され、ジャンル横断的な内容が特徴的でした。
これらの試みは、後の日本におけるオルタナティブ漫画やアート漫画の流れにつながっていきます。
独立漫画派の理念
- 商業主義から距離を置き、自己表現を優先する
- 漫画の芸術的可能性を探る
- 実験性、風刺、ナンセンスを重視
- 美術・文学など他分野との積極的交流
この理念は、単なるスローガンではなく、メンバーのその後の活動に色濃く反映されました。
やなせたかしの哲学的なヒーロー像や、長新太のナンセンス絵本などは、その延長線上にあります。
朝ドラ「あんぱん」独創漫画派モデル『独立漫画派』と『やなせたかし』さん

やなせたかし はじまりの物語: 最愛の妻 暢さんとの歩み
やなせたかしさんのキャリアは、独立漫画派での活動と、その後の国民的キャラクター『アンパンマン』の創作という、一見すると対照的な二つの側面を持っています。
彼の軌跡は、このグループが個々の表現者に与えた影響を深く考察する上で極めて重要である。
やなせ氏は、日本橋三越の宣伝部でグラフィックデザイナーとして働く傍ら、独立漫画派に参加し、漫画制作に励んでいました 。
会社員としての安定した収入を得ながら、仕事帰りに銀座の事務所に立ち寄って漫画を描き続けるという二つの顔を持っていた 。
三越時代には、猪熊弦一郎と共作で包装紙「華ひらく」をデザインするなど、本業でもその才能を高く評価されました 。
しかし、漫画による収入が三越の給料の約3倍に達したこと、そして何よりも妻・暢子氏の「失敗したら私が養う」という力強い言葉に背中を押され、1953年に専業漫画家としての独立を決意します 。
やなせたかし氏はこの決断に至る背景として、三越で起きたストライキでの経験を挙げています。
会社側と組合側、どちらにもつくことができず、「正義はやはりアイマイで、どちらが正しいとはいいきれなかった」という心境に至り、社内のゴタゴタに嫌気がさしたことが退職の契機となった 。
この「正義はアイマイ」という思想こそが、やなせ氏の芸術的キャリアにおける最も重要な転換点であると考えられます。
この思想は、彼が幼少期に経験した「正義のための戦争」が、戦後には「侵略戦争」へと一転したという実体験に基づいています 。
独立漫画派というアヴァンギャルドな環境で培われた反骨精神や実験精神は、彼の内面の葛藤と結びつき、独自の正義論へと昇華されました。
『アンパンマン』は、顔の一部をちぎって飢えた人々に分け与えることで、自身の存在を失っていく。
これは、自己犠牲を伴うことで初めて成立する、単純な二元論では割り切れない「アイマイ」な正義の具現化です。
この自己犠牲の精神は、戦争という巨大な暴力の中で価値観が崩壊した経験と、独立漫画派での知的探求が結びついて生まれた、やなせ氏の思想の結晶と言えます。
独立漫画派という実験的な表現の場での経験が、最終的に国民的なキャラクター「アンパンマン」の根底をなす深いテーマに繋がったという事実は、日本の文化史において極めて興味深いプロセスを示しています。
『独立漫画派』解散と才能の拡散 – 個々の表現者としての飛躍
独立漫画派の活動は、1950年代後半から手塚治虫らによるストーリー漫画が市場を席巻し、次第にその活躍の場を狭めていきました。
彼らが志向したような、風刺やナンセンスを主とする実験的な漫画は、大衆的な商業誌においては徐々に居場所を失っていったのです 。
しかし、このグループ活動の終焉は、一般的に語られるような「失敗」や「挫折」ではなく、彼らが結成当初から掲げていた「独立」の理念の究極的な達成であったと解釈することがでます。
メンバーたちは、特定の形式(漫画)に固執することなく、それぞれが自身の個性を最も活かせる新たな表現の場を求め、漫画というジャンルの枠を飛び越えていきました。
この「解散」は、グループの才能が多様な分野へ「拡散」していくための原動力となったのです。
小島功は美人画の世界へ、長新太は絵本の世界へ、久里洋二と柳原良平はアニメーションの世界へと、それぞれが専門分野を確立していきました。
このメンバーたちの多様な進路は、独立漫画派という実験的な場が、個々の才能を特定のジャンルに縛り付けるのではなく、自由に開花させるための「揺りかご」として機能していました。
彼らの才能の「拡散」が、結果として日本のイラストレーション、アニメーション、絵本といった多岐にわたる視覚文化の発展を加速させました。
独立漫画派の活動は、日本の視覚文化の多様性を生み出すルーツとして、その後の歴史に不可欠な影響を与えたのです。
代表的メンバーとその後の活躍
独立漫画派が解散した後、主要なメンバーたちは各自の道で独自の才能を開花させ、日本の視覚文化の形成に多大な功績を残しました。
以下に、主要なメンバーの解散後の活躍を個別に詳述する。
やなせたかし
三越のデザイナーとして働きながら独立漫画派に参加していました。
後に『アンパンマン』で国民的な人気を得ます。
「正義はアイマイである」という思想は、商業的成功よりも表現の自由を重んじた独立漫画派時代の経験に根ざしています。
小島功:美人画と大衆的ユーモアの融合(朝ドラ「あんぱん」大島コオのモデル)

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独立漫画派の中心人物です。解散後に官能的で艶やかな美人画という独自の世界を確立しました。
漫画家・杉浦幸雄の女性描写に憧れ、新太陽社の編集者であった吉行淳之介の提案で美人画を描き始めました 。
週刊誌「アサヒ芸能」で連載した「仙人部落」は、艶やかな美女が登場するユーモア漫画として人気を博し、テレビアニメ化もされました 。
美人画と大衆的なユーモアを融合させた彼の功績は高く評価され、文藝春秋漫画賞を受賞したほか、後には日本漫画家協会の理事長も務めるなど、漫画界の重鎮として活躍しました 。
独立漫画派で培った自由な発想が、その作風の礎となっています。

小島功さんは、朝ドラ「あんぱん」では、七瀬公さんが演じる
美人画が得意なマンガ家「大島コオ」のモデルと考えられます。


長新太:ナンセンス絵本の開拓者


キャベツくん (みるみる絵本) [ 長 新太 ]
長新太は、独立漫画派で培った柔軟で斬新な発想を絵本の世界で開花させました。
1959年には『おしゃべりなたまごやき(Amazon)』で文藝春秋漫画賞を受賞しました。
その後も、『キャベツくん(Amazon)』など数々の作品を発表。文藝春秋漫画賞や絵本にっぽん大賞を受賞しました。
長新太のユニークな画風と発想は、日本の絵本界に「ナンセンス」という新たな分野を切り拓き、後続の作家たちに多大な影響を与えました。
久里洋二:アニメーションの開拓者(朝ドラ「あんぱん」久里田 洋のモデル)
久里洋二は『人間動物園』といった短編アニメーションで国際的な評価を獲得し、テレビ番組『11PM』や『みんなのうた』『ひょっこりひょうたん島』でも作品を発表した 。



久里洋二さんは、朝ドラ「あんぱん」では、江原 パジャマさんが演じる
褒め上手の「久里田 洋」のモデルと考えられます。


柳原良平:アニメーションの開拓者


アンクルトリス交遊録 (中公文庫 や79-1) [ 柳原良平 ]
柳原良平は京都美術大学卒業後、寿屋(現・サントリー)の宣伝部で働く中で、国民的キャラクター「アンクルトリス(Amazon)」を考案し、昭和の広告デザイン史に名を刻みました。
柳原良平、真鍋博と共に「アニメーション三人の会」を結成し、大人向けアニメーションの先駆けとなる作品を制作しました。
また、無類の船好きとしても知られ、船をテーマにした絵本やイラストを多数制作するなど、多方面で才能を発揮しました 。


井上洋介:エログロ・ナンセンスの絵本作家


くまの子ウーフ (新装版くまの子ウーフの童話集)
井上洋介は、「エログロ・ナンセンス」と称される強烈な個性と独特のユーモア溢れる画風で、漫画、イラストレーション、絵本など多方面で活躍しました 。
彼の代表作には、児童文学作家の神沢利子とタッグを組んだ『くまの子ウーフ(Amazon)』があり、長年にわたり子どもたちに親しまれています 。


加藤芳郎:ユーモア漫画と文化活動


父から学んだこと父として教えること: 親子のつき合い方
「前衛漫画会」の創設メンバーの一人であった加藤芳郎は、ユーモアとナンセンスあふれる作風で知られました 。
彼は漫画家としての活動に加え、漫画賞の選考委員としても活躍し、その選評からは漫画に対する深い洞察と、大衆性をも評価する柔軟な視点が窺える 。



昭和時代に放送されたNHKの連想ゲーム白組男性軍のキャプテンです。


針すなお
1956年(昭和31年)にプロ漫画家としてデビュー後、一時期、独立漫画派に属していました。



針すなおさんは、現在92歳で御存命です。
現代への影響
独立漫画派は短命なグループでしたが、その精神は現代の漫画やアート、デザインにまで受け継がれています。
「漫画を芸術として扱う」という理念は、今日のグラフィックノベルやアート漫画の発展にも直結しています。
また、インディーズ漫画や自主制作アニメーションのムーブメントにも、独立漫画派の姿勢と通じる部分があります。
自由な表現の場を自ら作り出すという考え方は、デジタル時代においてもなお有効なのです。
独創漫画派モデル『独立漫画派』とは?前衛漫画家集団を紹介!まとめ
- 独立漫画派は戦後日本の前衛漫画家集団である
- 商業主義から距離を置き、漫画の芸術性を追求した
- 解散後も各メンバーが多方面で活躍し、日本文化に大きな影響を与えた
- やなせたかしの『アンパンマン』など、後の作品にも思想的影響が見られる
独立漫画派は、漫画史のみならず日本文化史においても欠かせない存在です。
その短い活動期間の中で示した創造の精神は、今も新たな表現者たちの心を刺激し続けています。
本サイトでは、朝ドラ「あんぱん」のあらすじを紹介しています。
▼あらすじをみてみる
▶▶▶あんぱんネタバレあらすじ吹き出しを最終回まで最新週を紹介
また、朝ドラ「あんぱん」の視聴率についても順次更新しています。
▼数字で見る朝ドラ「あんぱん」
▶▶▶あんぱん視聴率推移一覧『グラフ』でおむすびと比較する速報
- 出演キャスト:あんぱん登場人物・キャスト役名前の由来がキャラクター名だ
- 子役タレント:あんぱんキャスト「子役」は誰?
- 撮影地情報:あんぱんロケ地舞台どこ?何県?高知茨城など撮影場所を紹介
- 主題歌:あんぱん主題歌「賜物」の読み方は?
- オープニング映像:朝ドラあんぱん「オープニング映像」変わったopのCGも!
- ナレーション(語り):あんぱんナレーションは林田理沙アナ!
- 視聴者が参加できるイベント:巡回展やパネル展など