虎に翼の雲野六郎の実在モデルは帝人事件の海野普吉と原爆裁判の岡本尚一

朝ドラ「虎に翼」の雲野六郎の実在モデルは海野普吉!帝人事件も担当
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2024年前期連続テレビ小説

朝ドラ「虎に翼」の主人公:猪爪寅子の修習として働くことになった雲野法律事務所。

声が大きい人がお好みの雲野六郎弁護士の法律事務所です。

この雲野六郎には実在モデルが存在しました。

今回は、朝ドラ「虎に翼」の雲野六郎について

  • 雲野六郎の実在モデルの海野普吉弁護士
  • 雲野六郎役のドランクドラゴン塚地武雅

について紹介します。

さらに戦争中は働いていた山田よねを解雇するなどお金事情が悪かった雲野法律事務所。

ふたたびの東京編にて原爆裁判のシーンで雲野先生が再登場します。

原爆裁判の弁護士のモデルは岡本尚一弁護士です。

海野普吉と岡本尚一を足して2で割った雲野六郎弁護士について、詳しく紹介します。

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目次

朝ドラ「虎に翼」雲野六郎が関与する原爆裁判とは?

雲野六郎のイラスト(イメージ図)

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』では、主人公の佐田(猪爪)寅子が原爆裁判に挑む姿が描かれています。

原爆裁判は、実際に戦後の日本で行われた「原爆訴訟」をモデルにしています。

原爆裁判は、昭和20年8月に広島と長崎に投下された原子爆弾による被害者が、アメリカ政府に対して損害賠償を求めた裁判です。

原告側は、原爆の投下が国際法に違反し、非人道的な行為であると主張しました。

特に、原爆は軍事目標主義に反し、戦争に際して不必要な苦痛を与えるものであるとされました。

この裁判は、戦後の日本における法的および社会的な課題を浮き彫りにしました。

賠償請求権を放棄したことが問題



特に、サンフランシスコ講和条約により、日本政府がアメリカに対する賠償請求権を放棄したことが問題となりました。

そのため、原告たちは日本政府を相手に訴訟を起こし、賠償金を求めました。

裁判の結果、原爆の使用が国際法に反するという判決が下されましたが、実際の賠償は行われませんでした。

この裁判は、核兵器の使用に対する国際的な抑止力としても大きな意味を持ちました。

朝ドラ「虎に翼」雲野先生と原爆裁判

雲野の依頼をうける山田よねと轟のイラスト(イメージ図)

昭和29年3月、米国がビキニ環礁で水爆実験を行い日本の漁船第五福竜丸が被ばくしました。

この被ばくが忘れ去られることがないように、また、同じ過ちを繰り返さぬように、

誰かが声を上げねばならんと雲野六郎が声を上げました。

それに伴い、雲野六郎に万一があったら、岩居君を助けてほしいと轟とよねにおねがいしたのだ。

断ろうとした轟に対し、山田よねは「わかりました」と即決します。

竹もとで寅子と再会

竹もとの雲野のイラスト(イメージ図)

昭和30年(1955年)7月、雲野に竹もとに誘われた寅子。

原爆裁判の話は無しで、再会できたことに、

「法曹の神様が最後の法廷のために用意してくれているみたいじゃないか」

と寅子に語りました。

昭和30年10月、原爆裁判の第2回準備手続の日

訴える岩居のイラスト

昭和30年(1955年)10月、原爆裁判の第2回準備手続の日、

国側の指定代理人は 原告側の訴訟内容を全て否認する答弁し、国側に賠償責任はないと主張。

それに対し、岩居が原告の主張事実に対する認否については本件の持つ人道的意義に鑑み

木で鼻をくくったような答弁をしないで誠実に対応してほしいと訴えます。

広島への原子爆弾の投下は国際法に違反すると言っていると国側に伝えました。

原爆裁判は延期申請へ・・・なかなか進まない原爆裁判の準備手続

国側が戦争に負けた国が勝った国に賠償を請求した例はなく賠償請求権が放棄されるのが慣例。

放棄される宿命なのですというと、

雲野はそんな言葉でくくっていただきたくないですなと言い返します。

原爆裁判第27回準備手続きで手続き処理完了

原爆裁判第27回準備手続きのイラスト

昭和34年11月、岩居が過労で倒れたため、雲野一人で原爆裁判第27回準備手続きに出向き、4年間にわたった原告裁判の準備手続きが終了した。

山田轟法律事務所に立ち寄った雲野、損害賠償の訴えが認められれば国に賠償を求める人が次々と現れる。

政府は阻止したいに違いないが「風化させないためにそれでもやらねばならん」とよねと轟に言う。

そこに梅子がやってきておにぎりを渡す梅子

雲野弁護士の最後の言葉は「おにぎりが大好きなんだ」

苦しむ雲野弁護士のイラスト

梅子のおにぎりをとった雲野弁護士「おっ、おにぎりがが・・だいすき・・なんだぁ」とはいわず、

「おにぎりが大好きなんだ」

と手に取った瞬間、倒れてしまい亡くなってしまった。

弱音を吐く岩居によねと轟が力になる

遺影の雲野弁護士のイラスト(イメージ図)

雲野弁護士が亡くなり訴訟は無理なのではと原告達が不安がっていると岩居が弱音を吐きます。

そんな岩居に轟とよねが広島と長崎へ行き、

「彼らはいつまで耐え続けなければいけないんだ?」と憤りを感じていたよね。

裁判が開かれるところまで来たから、雲野弁護士の遺志を途絶えたくないはずと轟は伝えた。

よねもやりましょうよと岩居に声を掛けた。

原爆裁判第1回の口頭弁論

原爆裁判第1回の口頭弁論で置かれた雲野の遺影のイラスト(イメージ図)

昭和35年(1960年)2月、原爆裁判第1回の口頭弁論が行われ、

冒頭、岩居が訴状の骨子を陳述を読み上げ、無差別に民間人の命を亡くし、

苦痛を与えた原爆投下は人道に反する国際法違反であり

米国は被爆者に対して損害賠償を支払う義務があるというと。。傍聴席にヨボヨボな老人が・・

傍聴席には年老いたフリーランスの竹中記者が

竹中記者のイラスト

傍聴席にやってきたのは年老いた竹中記者だった。

生前の雲野から裁判の記録を記事にしてほしいと依頼されやってきたのだ。

あの戦争を振り返ろうや。そういう裁判だろ?という竹中。

去り際に山田よねが「意義のある裁判にするぞ」と宣言

「意義のある裁判にするぞ」というよねのイラスト

去り際に山田よねが「意義のある裁判にするぞ」と小声で寅子に伝えます。

昭和36(1961年)年6月鑑定人尋問

昭和36(1961年)年6月に鑑定人尋問が行われました。

  • 国際法学者 保田敏明 非交戦者である一般市民に惨害を及ぼす無差別爆撃を禁止する原則に背いている
  • 国際法学者 嘉納隆義 原爆投下が国際法違反だとは必ずしも断定できない

嘉納隆義に対する山田よねの反対尋問

反対尋問する山田よねのイラスト

国際法上禁止されていなければどんな残虐な戦闘行為でも違法ではない。

主権在民の日本国憲法において個人の権利が国家に吸収されることはない。

憲法と国際法および国際条約の規定と法的にはどちらを上に考えればよいか?

原告は 「今」を生きる被爆者ですが?

という反対尋問した山田よね

補充尋問をする寅子

補充尋問をする寅子のイラスト


鑑定人の嘉納に、米国にも国にも賠償責任を求められない場合、

今、苦しんでいる被爆者はどこに助けを求めればよいとお考えですか?

と聞かれ、嘉納は「法学者としてお答えできることはありません」と答えた。

そして、この原爆裁判が

竹中のルポを通じて人々の心を打ち雲野先生の願いを叶えるように原爆裁判は世間の注目が集まった。

法的に原告の方々の損害賠償請求権を認めることは難しいが

自分に何ができるのか?考えても分からなかった寅子。

そして、翌日桂場から原爆裁判を早く終わらせろと慌てた政治家たちにふざけやがってという。

法をつかさどる自分の無力さ、限界を感じる寅子に

桂場は、司法に何ができるのか考えろと助言する。

原告の吉田ミキさんが法廷に立ってくれることに

山田よねのイラスト


原告の吉田ミキさんが法廷に立ってくれるそうだと岩居が喜ぶが、

彼女だけが矢面に立てばこの先、どうなってしまうのかと心配する轟。

そこによねがどの地獄で何と戦いたいのか決めるのは彼女だと岩居と轟に伝えた。

これを受けて、昭和36年(1961年)12月、翌月の東京地裁に当事者尋問の申請がされた。

上京してきた吉田ミキさんだが・・

吉田ミキさんに進言する山田よねのイラスト

上京してきた吉田ミキさんだが、上野駅に降りた際、振り返る人をみて、

美人コンテストに優勝したことを思いだした。振り返る人の顔つきは違っていたがとよねに話す。

「かわいそうな女が同情をかえる」という吉田ミキさんに山田よねは

「無理することはない、やめましょう、あなたを矢面に立たせるべきではない」と

「声を上げた女にこの社会は容赦なく石を投げてきて、傷つかないなんて無理」と進言します。

それでもつらくて苦しい事を聞いてほしいという吉田ミキさんに、策は考えるという山田よね。

そして、当事者尋問は取りやめ、原告代理人が手紙を代読することになった。

吉田ミキさんのつらい気持ちを代読する俺たちの轟

代読する俺たちの轟のイラスト

法廷で吉田ミキさんの手紙を読む轟

吉田ミキさんの話を聞く岩居や山田よねや轟や竹中記者
吉田ミキの話を記録する山田よねと竹中記者のイラスト
  • 21歳の時に、広島で爆心地から2キロの時点で被ばく
  • 体が燃え、皮膚はボロボロで顔・頭・胸・足に被害を受けた
  • 娘を産んだ際、原爆で乳腺が焼けてしまい乳をやれなかった
  • 3度目の流産を期に夫は家を出て行った
  • ただ人並みに扱われて穏やかに暮らしたい
吉田ミキさんのイラスト


「助けを求める相手は国以外に誰がいるのでしょうか」と手紙を締めた。

原爆裁判は昭和38年の3月に最終弁論が、のこりは判決を言い渡すだけになった。

判決の主文後回しで判決理由の要旨を読み上げた

判決理由を読み上げる汐見のイラスト

判決主文を後回しに判決理由の要旨を読み上げたのは民事裁判で異例であった。

長崎・広島の原爆投下に関して、破壊力から無差別爆撃であることは明白、

当時の国際法から見て違法な戦闘行為。

個人の損害は損害賠償請求権は、国際法上の主体性が認められず

権利が存在するとする根拠はない。

裁判所の職責ではなく立法府である国会および行政府である内閣の職責で

原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができる。

本訴訟を見るにつけ政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。

主文、原告らの請求を棄却する。

判決を聞く山田よねのイラスト


主文、原告らの請求を棄却する。

8年間行われた原爆裁判は国側の勝訴で閉廷した。

閉廷後、雲野の遺影をみる岩居
原爆裁判の判決文のポイント
  • 原爆投下と国際法(裁判所の判断として世界初)
  • 救済策の必要性(国に被爆者支援を望む)

国際法違反の判断の判決を維持するため、原告は控訴はしませんでした。

また、原爆裁判は、世界にも注目され、被爆者援護施策や原水爆禁止運動の一役を担いました。

原爆裁判の本を出す竹中記者

竹中記者のイラスト


竹中記者は記者は自身初の本を出版し、寅子に報告。

これでおれも・・また、どこかでな、「佐田判事」といって去った。

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山田轟法律事務所では・・

雲野の遺影のイラスト

山田轟法律事務所で、控訴はしなくてよいのか岩居に聞く山田よね。

岩居は原告達に負担は掛けたくないというと、轟が国際法違反の判決があると言い出す。

そこで、被爆者救済の立法を求める活動をしようと岩居と轟は考え、

雲野もそういうに違いないと「原爆被害者救済弁護団、結成」と言い出す俺たちの轟。

寅子がやってきて・・

寅子にお酒をつぐ山田よねのイラスト

言葉がでないで黙礼する寅子に山田よねが

黙って飲めとお酒を注いで、一気に飲み干し、

できることはやったが原告の被爆者の方々が救われた訳ではないと考える寅子であった。

朝鮮や中国や台湾や帰国できなかった原爆被害者の活動を支援する香淑

香淑と汐見のイラスト

法的支援を受けられていない朝鮮や中国や台湾や帰国できなかった原爆被害者の活動をするという香淑

責務と原爆に対する知識が必要だと裁判官をやめる汐見。

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原爆裁判の弁護士のモデル岡本尚一弁護士とは?

岡本尚一弁護士のイラスト(イメージ図)

岡本尚一(おかもと しょういち)氏は、日本の弁護士であり、

特に「原爆裁判」において重要な役割を果たした人物です。

1892年6月11日に三重県で生まれました。

岡本尚一は1925年に弁護士登録し、その後、友新会の中心的な人物として活躍しました。

岡本氏は、1955年に広島と長崎の被爆者たちが日本政府を相手に起こした「原爆裁判」の提唱者です。

この裁判は、米国による原爆投下が国際法に違反する行為であると訴え、日本政府に対して損害賠償を求めるものでした。

岡本氏は、原爆投下の責任を追及するために「原爆民訴或問」という冊子を作成し、広島と長崎の弁護士たちに共闘を呼びかけました。

裁判は8年以上にわたり審理され、1963年に東京地裁は原告の賠償請求を棄却しましたが、米軍による原爆投下が国際法に違反する行為であると認定しました。

この判決は、被爆者援護施策の前進に大きな影響を与えました。

岡本氏は1958年に66歳で亡くなりましたが、彼の遺志は多くの人々に受け継がれ、

核兵器廃絶を訴える運動の一環として評価されています。

岡本尚一氏は、非常に情熱的で信念の強い人物でした。

被爆者の権利を守るために尽力し、原爆裁判を通じて核兵器の非人道性を訴えました。

彼の短歌からも、その情熱と被爆者への深い同情が伝わってきます。

岡本尚一弁護士の短歌

岡本尚一弁護士の短歌を紹介します。

  • 「東京裁判の法廷にして想いなりし原爆民訴今練りに練る」
  • 「夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり」
  • 「朝に夕にも凝るわが想い人類はいまし生命滅ぶか」

これらの短歌から、岡本氏の情熱と被爆者への深い同情、そして人類の未来への懸念が伝わってきます。

岡本尚一氏の原爆裁判以外の業績

  • 極東国際軍事裁判: 岡本氏は、1946年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)において弁護側の一員として参加しました。この裁判では、東条英機元内閣総理大臣らが戦争犯罪で裁かれました。
  • 「原爆民訴或問」の作成: 1953年に「原爆民訴或問」という冊子を作成し、広島と長崎の弁護士たちに共闘を呼びかけました。この冊子は、原爆投下が国際法に違反する行為であることを論じたもので、後の原爆裁判の基礎となりました。
  • 被爆者援護運動: 岡本氏は、被爆者の権利を守るための運動にも積極的に関与しました。彼の努力は、被爆者援護施策の前進に大きく寄与しました。
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東京地裁の原爆裁判で三淵嘉子による判決「原爆投下は国際法違反」


画像引用元:楽天

1955年(昭和30年)4月25日、広島・長崎の被爆者たちが、国家に対して損害賠償を求める原爆裁判を提訴しました。

「原爆裁判」、または下田隆一氏の名前から「下田事件」とも呼ばれる訴訟でした。

朝ドラ「虎に翼」寅子のモデル三淵嘉子は東京地裁の担当裁判官となり、約8年にわたる審理に携わりました。

当時、原爆投下は軍事上必要だったという意見が主流でした。

しかし、嘉子は被爆者たちの証言や証拠を丁寧に調べ上げ、国際法の観点から原爆投下を違法と断定しました。

1963年12月7日の判決では、東京地裁は原告の請求は棄却だが、原爆投下を違法な戦闘行為と認定する判決を下しました。

これは、日本の裁判所が初めて原爆投下を違法と判断した画期的な判決であり、その後の原爆被害に対する議論に大きな影響を与えました。

判決文には、三淵嘉子の強い信念と正義感が込められています。彼女は、原爆投下によって被爆者たちが受けた苦しみを深く理解し、法の力で救済しようと努力しました。

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東京地裁の原爆裁判・下田裁判の詳細

「東京地裁の原爆裁判」、または「下田事件」とも呼ばれるこの訴訟は、1955年4月25日に東京地方裁判所に原告3名により提訴されました。

この裁判は、広島と長崎の被爆者たち5人が、サンフランシスコ平和条約で米国への賠償請求権を放棄した日本政府を相手に起こした訴えでした。

原告らは、原爆投下が国際法違反であるにもかかわらず、対日講和条約第19条(a)により日本国が国民の請求権を放棄したため、対米賠償請求が不可能となったから、国が賠償すべきであると主張しました。

1963年12月7日に判決が言い渡され、原爆投下が国際法に違反すると明確に認められました。

具体的には、

「原子爆弾による爆撃は無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当」

との判断が示されました。

しかし、判決は、日本国民のこの種の対米賠償請求権は、講和条約第19条(a)の規定と関係なく、そもそも存在しないものとして原告の請求を退けました。

判決による影響は?核兵器に関する議論に影響

この判決により、原爆投下の違法性を指摘し核兵器禁止条約の礎石になったともいえる裁判です。

判決後の核兵器に関する議論に大きな影響を与えました。

また、国の結果責任の可能性や政治の貧困を嘆いたことから、原爆特別措置法に道を開いたともいわれています。

原爆裁判がもたらしたものは?

原爆裁判によって以下のできごとがありました。

  • 1968年 原爆被爆者に対する特別措置法
  • 1995年 被爆者援護法
  • 1996年 国際司法裁判所 勧告的意見
  • 2021年 核兵器禁止条約「核兵器の使用は非人道的で国際法に違反する」発効
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原爆特別措置法とは?

「原爆特別措置法」は正式には「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」と呼ばれ、

昭和43年に制定されました。

この法律は、広島と長崎に投下された原子爆弾の被爆者であって、

原子爆弾の傷害作用の影響を受け、今なお特別の状態にあるものに対し、特別手当の支給等の措置を講じることにより、その福祉を図ることを目的としています。

この法律により、被爆者に対する医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする施策が実施されています。

具体的には、被爆者に対して必要な医療の給付を行い、その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある場合に限り、その医療の給付を行います。

また、この法律により、被爆者に対する健康診断が行われ、その結果に基づいて必要な指導が行われます。

さらに、被爆者に対する医療の給付は、厚生労働大臣が指定する医療機関に委託して行われます。

このように、「原爆特別措置法」は、原爆の被爆者に対する援護を具体化した重要な法律であり、その福祉の向上を図るための基盤となっています。

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原爆特別措置法の問題点

「原爆特別措置法」は被爆者の福祉を図るために制定された重要な法律ですが、

その適用や実施にはいくつかの問題点が指摘されています。

  • 在外被爆者への支援: さまざまな事情から自国に戻った被爆者や海外に渡った被爆者は、日本に滞在している期間を除いては長い間被爆者援護法の対象となっていませんでした。

    しかし、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、司法に訴える動きも相次ぎました。

    現在では、日本国外に居住する被爆者についても、居住国で負担した医療費を被爆者援護法に基づき支給できるようになりました。
  • 黒い雨に関する調査研究と地域拡大への取組: 広島市の北西部の放射能を含んだ黒い雨が降った地域、いわゆる「黒い雨降雨地域」については、昭和51年 (1976年)9月、その地域の一部が「健康診断特例地域」として指定されましたが、未だ指定されていない地域が残されています。
  • 法律の一本化とその影響: 昭和32年に施行された「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)及び43年に施行された「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」(原爆特別措置法)の、いわゆる原爆2法に基づき、被爆者の健康診断、医療の給付、各種手当の支給等の援護対策が行われてきました。

    しかし、被爆者の高齢化の進行など被爆者を取り巻く環境の変化に伴い、施策を更に充実発展させた総合的な対策を講ずることが強く求められるようになり、被爆後50年を契機に、平成6年、第131回国会において、原爆2法を一本化した被爆者援護法が成立しました。

    この一本化により、給付内容についても以前の原爆二法より充実しましたが、その適用や実施については引き続き問題が指摘されています。

参照:原爆被爆者援護の現状と課題広島市:被爆者に対し、どのような援護施策がとられてきたのですか。

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朝ドラ「虎に翼」雲野六郎実在モデルは海野普吉!帝人事件も担当

猪爪直言(イラスト)

朝ドラ「虎に翼」寅子は弁護士の修習生として迎入れた、雲野法律事務所のオーナーの雲野六郎。

困っている貧しい人の依頼を受けてしまう。。。なので、事務所も給与が払えなくなるほどの火の車・・

モデルは海野普吉です。共亜事件でも弁護士を務めました。

事件の元ネタとなった帝人事件の裁判で、海野普吉は弁護をしました。

そんな、海野普吉弁護士について紹介します。

海野普吉弁護士とは?

海野普吉(イメージ図)

海野普吉(うんの しんきち;1885年8月29日 – 1968年7月6日)は、

昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士でした。

大正、昭和の時代を通じて一貫して社会、経済、労働と広い分野で弁護士として活躍し、思想事件の第一人者と言われるなど、困難な刑事事件に取り組みました。

海野普吉は多くの思想裁判・政治裁判の弁護を行い、戦後は社会運動も行いました。

また、戦後初の最高裁判事の職を受けず、親友の片山哲内閣の法務大臣の職も受けず、一貫して弁護士であることを貫きました。

1947年に自由人権協会を創設し、その後20年間にわたり終生、理事長として日本全国に人権思想を普及するために奔走しました。

また、彼の事務所からは多様なすぐれた門下生を多数輩出しています。

海野普吉は1968年7月6日に逝去しましたが、晩年気に掛けていたのは、自由人権協会の行く末と、サリドマイド薬害裁判だと言います。

彼の名前を冠とする人権基金である「海野人権基金」が設立され、人権に関する調査研究活動の助成と、人権擁護の促進のために奮闘する方々を支援することを目的としています。

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海野普吉弁護士が携わった事件について

海野普吉弁護士が携わった事件を紹介します。

  • 人民戦線事件:日本共産党が主導した反ファシズム組織「人民戦線」のメンバーが治安維持法違反の罪で起訴された事件です。
  • 河合栄治郎事件:東京帝国大学教授の経済学者:河合栄治郎が右翼・軍部・ファシズム勢力によって社会的に抹殺しようとされた事件です。彼の著書が「安寧秩序を紊るもの」として起訴されました。海野普吉は、河合の弁護を担当し、無罪を主張しましたが、最終的には有罪が確定しました
  • 津田左右吉事件:東京帝国大学教授の津田左右吉が治安維持法違反の罪で起訴された事件です。海野普吉はこの事件で津田の弁護を担当しました。
  • 唯物論研究会事件:唯物論研究会という学術団体が共産主義的な思想を広めたとして治安維持法違反の罪で起訴されたものです。海野普吉は弁護を担当し、被告たちの思想の自由を守るために尽力しました。
  • 企画院事件:1941年に企画院のメンバーが治安維持法違反の罪で起訴された事件です。海野普吉は、この事件でも弁護を担当し、被告たちの権利を守るために戦いました。
  • 尾崎行雄不敬事件:尾崎行雄が天皇への不敬罪で起訴された事件です。
  • 横浜事件:日本共産党員が治安維持法違反の罪で起訴された事件です。
  • 松川事件:戦後の1950年に起こったこの事件は、福島県松川町で列車が脱線し、乗務員が死亡した事件です。共産党員や労働組合員が治安維持法違反の罪で起訴されましたが、海野普吉は彼らの弁護を担当し、無罪を主張しました
  • 砂川事件:1957年に米軍基地反対運動の活動家が公務執行妨害の罪で起訴された事件です。東京都砂川町で米軍基地拡張に反対するデモが行われた際に逮捕された人々の裁判で、海野普吉は、被告たちの弁護を担当し、彼らの権利を守るために戦いました
  • 一家四人死刑事件:大場茂馬の居候弁護士として、海野普吉が関与しました。
  • 小島事件:小島一郎が治安維持法違反の罪で起訴された事件です。

雲野同様に海野弁護士は若い頃に手落ちで救えなかった冤罪への後悔があった

寅子が弁護士として女性から依頼をうけて裁判に勝訴しますが、

調書をよくみたら依頼人がウソをついていたことがわかり。。。

「君の失態が誰かの人生を狂わせたことを、忘れてはいかん」

と雲野弁護士が若い頃に手落ちで救えなかった冤罪への後悔を明かします。

じつは、モデルになった海野弁護士は、1914年(大正3年)に新潟県中蒲原郡横越村で発生した父親の命を奪われた事件において、その長男があやめたと裁判で判決、刑が執行され長男は命を落とします。

その数年後、海野普吉は、命を落とされた長男の犯行でなく、外部犯だとわかります。

海野弁護士は、真実に基づかない裁判をしてしまったことに後悔し、この事件を生涯の教訓としました。

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「戦時下最大の言論弾圧事件」である横浜事件を弁護した

「横浜事件」は、戦時下最大の言論弾圧事件とされ、弁護士の海野普吉が弁護を担当しました。

この事件は1942年から1945年にかけて発生し、中央公論、改造社、朝日新聞などの言論・出版関係者らが60人以上が治安維持法違反容疑で神奈川県警特別高等課(特高)に捕らえられた事件の総称です。

拷問により4人が亡くなり、30人が有罪判決を受けました。

ドラマでも、言論弾圧を目的として逮捕された大勢の新聞記者や編集者の弁護を引き受けるシーンとして登場しました。

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海野普吉弁護士に関連する運動について

海野普吉(うんの しんきち)は戦後、人権擁護運動や原水爆禁止運動などに積極的に関与し、社会運動家としても活躍しました。

人権擁護運動

戦後、海野普吉は日本社会党の顧問となり、1947年には自由人権協会を創立し、初代理事長に就任しました。

この協会は、戦後日本における人権擁護のための重要な組織であり、海野はその中心人物として活動しました。

また、1957年には総評弁護団を結成し、初代会長に就任しました。

この弁護団は、労働者の権利を守るための組織であり、海野はその活動を通じて労働者の権利擁護にも尽力しました。

原水爆禁止運動

1954年のビキニ環礁での水爆実験を契機に、原水爆禁止運動が全国に広がりました。

海野普吉もこの運動に積極的に関与し、核兵器の廃絶を訴えました。

彼は、核兵器の使用が人類に対する重大な脅威であると認識し、その廃絶を目指して活動しました。

この運動は、核兵器の全面禁止を掲げ、署名運動や平和行進などを通じて広範な支持を集めました。

社会運動家としての活動

海野普吉は、戦後も多くの社会運動に関与しました。

彼は、憲法擁護運動や沖縄問題にも取り組み、社会正義の実現を目指して活動しました。

また、1961年には日本民主法律家協会を設立し、代表理事に就任しました。

この協会は、法律家としての立場から社会正義を追求するための組織であり、海野はその活動を通じて多くの人々の権利を守りました。

海野普吉の活動は、戦後日本における人権擁護や社会正義の実現に大きく貢献しました。

彼の努力と献身は、多くの人々に影響を与え、今もなおその精神は受け継がれています。

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朝ドラ「虎に翼」雲野六郎役の塚地武雅について

朝ドラ「虎に翼」雲野六郎役の塚地武雅は、お笑いタレント、俳優、そしてYouTuberとしても活動しています。

1971年11月25日に大阪府で生まれ、お笑いコンビ「ドランクドラゴン」のボケとツッコミを担当しています。

相方は笑神様は突然に…のスーパーサラリーマンで有名な鈴木拓です。

塚地は大阪府立佐野高等学校、そして桃山学院大学経済学部を卒業しました。

1996年に鈴木拓とともに「ドランクドラゴン」を結成し、その後バラエティ番組に多数出演しました。

また、2003年頃からは俳優としても注目を集め、多くの映画やテレビドラマに出演しています。

彼の演技力は高く評価されており、2006年に公開された映画『間宮兄弟』で日本の権威あるキネマ旬報、ブルーリボン賞、毎日映画コンクールの三冠映画賞新人賞を受賞しました。

「グラリオサ音子」としてYoutuberとして活躍

また、YouTubeでも活動しており、自身のチャンネル「グラリオサ音子」では多くの視聴者を獲得しています。

ただし、直近では動画があがっていません。

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朝ドラ「虎に翼」ストーリーの概要

昭和4年(1929年)、日本初の女性専門の法律学校が開設されました。

そこには、当時の社会に適応できないで、不安や抑圧を感じる女性たちが集いました。

「虎に翼」物語の主人公である猪爪寅子もその一人です。

彼女たちは、「魔女部」と揶揄される学び舎で法律を学び、

自らの職業への道を切り開く覚悟を決意しました。

その法律学校から昭和13年(1938年)、日本初の女性弁護士が誕生しました。

女性弁護士の一人にもちろん、寅子もおり、彼女たちは全国的に注目を集めました。

でも、彼女たちが弁護士として社会に進出した時節、日本は戦争への道を歩み始めていました。

彼女たちは法律の知識を得た翼で羽ばたこうとしましたが、

その翼はもぎ取られて、失速してしまいました。

昭和20年(1945年)、焼け野原の中で立ち尽くす寅子は全てを失いました。

でも、過去に学んだ法律だけが、生き抜くための糧でありました。

寅子は裁判官になることを決意し、

戦争で亡くした親や困難に立ち向かう女性や子どもたちのために、

家庭裁判所の設立に尽力しました。

そして、寅子はついに裁判官となりました。

寅子と仲間たちは、政治や経済では解決できない、

困難に立ち向かう人々の世界を理解し、

その苦境から救うために情熱を持って取り組みました。

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虎に翼の雲野六郎の実在モデルは海野普吉!帝人事件と原爆裁判!まとめ

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最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

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